パルティア
短い期間で大きな領土を築き上げたアケメネス朝ペルシアでしたが、「アルゲアス朝マケドニア」の「アレクサンドロス3世」によって滅ぼされることになります。
アレクサンドロス3世は無敗のまま生涯を終えており、アケメネス朝の最盛期を上回る大きさの領土を持っていましたが、アレクサンドロスが病気で死亡すると後継者争いが激化しアルゲアス朝は分裂、複数の国が乱立する状態になります。
その流れの中で独立したパルティアは、移動がしやすい土地にあったため、西の国と東の中国などの交易の要衝地として繁栄しました。またこのことから、パルティアを建国した「アルサケス」の名前は中国に「安息」として知られていました。
しかし、栄えていたために大国から目を付けられやすく、その中の「ローマ帝国」と争いに発展しました。そのローマ帝国との戦いで国力を低下させ、結果としてササン朝ペルシアにその地を奪われることになりました。
ササン朝ペルシア
「アルダシール1世」によって建国されたこの国は、パルティアと変わらず交易によって様々な人が入り乱れる状態にありました。そこでアルダシール1世は国の結束を強めようと、ゾロアスター教を国教にする政策を考え実行しました。
また、アルダシール1世は周辺諸国を次々と制圧、国力を高めていくことになります。
このアルダシール1世から「シャープール1世」に王が変わったあとも勢いは止まらず、現在のインドにある「クシャーナ朝」を滅ぼしたり、ローマ帝国を破り軍人皇帝である「ウァレリアヌス」を生きたまま捕らえ捕虜にするなど非常に優れた力を持っていました。
しかし土地の関係上争いは避けられず、東を荒らしていた「遊牧民エフタル」が侵入、しばらく争いが続き国は衰退することになります。
そこで王になった「ホスロー1世」は、ササン朝ペルシアの東北にいた大勢力である「突厥」と同盟を結び挟撃することでエフタルを撃破、最盛期と呼ばれるほどに国が繁栄することになりますが、「ニハーヴァンドの戦い」とよばれるイスラム教徒のアラブ人達との戦いで滅亡することになります。
ササン朝ペルシアの文化
・宗教
国教であったゾロアスターの他に、「マニ」が創始した「マニ教」があったとされています。
マニ教はゾロアスター教・キリスト教・仏教の要素を融合したもので、善悪二元論や禁欲、偶像否定などがありました。
しかし、ササン朝ペルシアではゾロアスター教を国教としていたため、マニ教の人々は異端として迫害され、国外へ移動することになります。
・美術
ササン朝ペルシアの織物やガラス器、陶器などは極めて優れており、交易が盛んだったため中国にも伝わり、後に日本にも影響を与えることになります。
最も有名なものとして法隆寺にある獅子狩文様綿や、正倉院の漆胡瓶などが知られています。