【古代中国②】周王朝と春秋戦国時代

中国
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周王朝・西周

周王朝の中でも西周と呼ばれる時代では、「鎬京(こうけい)」に都を置き、非常に大きな領土を持っていました。

そこで王は血縁を利用し、分割した土地をそれぞれ血縁者に与え、その領土を率いる存在である諸侯を一族で固める「封建制」をとりました。


またこの一族全体を宗族と呼び、その宗族を宗法と呼ばれる宗族のための法で縛り、争いが起きにくいようにしていました。


これらの政策によって争いは比較的少ない状態でしたが、遠征の失敗や10代目が財を独占したことによる反乱など、徐々に力を失い衰退していくことになります。

そしてそこに遊牧民「犬戎(けんじゅう)」などが入ってきたことで都が陥落、王族は東に移ることになります。


周王朝・東周ー春秋時代

都が鎬京から「洛邑(らくゆう)」に移り東周と呼ばれる時代に入ります。

その東周の中でも春秋と呼ばれる時代では、諸侯らは周の王族達を尊重し、彼らを守るために有力諸侯たちが「覇者」として「尊王攘夷(そんのうじょうい)」をとなえ争うことになります。


これは守ることを建前とした諸侯同士の権力争いであり、桓公(かんこう)や文公(ぶんこう)など、春秋五覇とも呼ばれる諸侯たちが力を強めていくことになります。


周王朝・東周ー戦国時代

力を持ったでしたが下剋上により普は「韓(かん)」、「魏(ぎ)」、「趙(ちょう)」の3ヵ国に分裂、これにより実力主義が激化し周王は失墜、下剋上と領土争いの戦国時代に移り変わっていきます。


この戦国時代では韓、魏、趙の3ヵ国に加え多数の国が争うようになり、その中から最も力を持った(しん)、(そ)、(せい)、(えん)と3国を合わせて「戦国の七雄」と呼ばれるようになり、中国統一に向けてこの7ヵ国での争いが続けられることになります。


またこの争いの影響は内政にも強く影響を与え、それぞれの国はより生産力を強めようと鉄製農具を使ったり、牛を使った牛耕が普及するなど農業が効率化されていきました。

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