【古代中国⑤】前漢の誕生

中国
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前漢の誕生

劉邦

項羽(こうう)との指導者争いに勝利した劉邦(りゅうほう)は、(かん)という国を建てました。

領土は秦の時代と同程度の大きさですが、秦のような農民反乱が起こらないよう郡国制を導入した政治を行いました。


郡国制は郡県制封建制(ほうけんせい)を組み合わせたもので、都の「長安(ちょうあん)」を中心とした一定範囲内のみ直轄地として治め、それ以外の領土には諸侯を派遣して統治を任せるといった方法でした。

しかし劉邦の死後、力のない王が続いたため諸侯は徐々に言うことを聞かなくなり、王の権力が諸侯に及ばなくなっていきます。


景帝

そのため諸侯は地方を私物化する傾向にありましたが、6代目の王である景帝(けいてい)が諸侯の統治領土の削減を行い力を削ぐことで権力を弱めようとしました。

これに対し諸侯は反発、「呉楚七国の乱」と呼ばれるを中心に諸侯7人による反乱が起きました。

しかし、この反乱は鎮圧され中央集権的な政治が見られるようになります。


武帝

前漢の全盛期と呼ばれる武帝(ぶてい)の時代になると、郡国制から郡県制のような中央集権の統治へ本格的に切り替わっていきました。

これにより国が動かしやすくなり、また郷挙里選(きょうきょりせん)と呼ばれる、地方にいる優秀な人材を国家機関で働く官吏として登用する制度もできました。


これに伴い董仲舒(とうちゅうじょ)に勧められた儒学を官学化、儒学を国で働く者たちに学ばせる官学にすることで反発が起きにくいようにしていました。

また儒学を研究し教える五経博士を設置してより儒学への理解を深めようとしました。


武帝の対外遠征 – 張騫の働き

長きに渡り力を持ち続けている匈奴を打倒しようと挟撃を考え、匈奴の西にある大月氏(だいげっし)に対し同盟を結ぶため「張騫(ちょうけん)」を送り込みました。

大月氏を選んだ理由は、大月氏は月氏(げっし)時代、匈奴の南にありましたが倒されていたため手を結べると考えたためです。


ただ、張騫は国を出て大月氏に向かう途中に捕らえられ、匈奴に連れていかれることになります。

そこで王に気に入られた張騫は匈奴で王のために11年も働き、妻と子供を持つことになりました。

しかし張騫は任を忘れておらず、匈奴を抜け出し大月氏に向かい同盟の交渉をしましたが、平和が続いていることから大月氏がこれを拒否、交渉は決裂し張騫は漢に戻ることになります。


しかし漢に向かおうとした張騫は再び匈奴に捕まり匈奴で暮らすことになりましたが、1年ほどで王が死に、匈奴は内部争いが勃発したため張騫はこれを利用し脱出、漢に西域の情報を大量に持ち帰ったとされています。


武帝の対外遠征 – 国土の拡大

持ち込まれた情報を利用し漢は匈奴を攻撃、内部争いもあったため匈奴を倒すことに成功します。これにより漢は西方面への大きな交易路を手に入れることに成功しました。

また、情報の中にあった優れた馬「汗血馬(かんけつば)」を手に入れるため、大宛(フェルガナ)に対し遠征を行い征服しました。


他にも東にあった現在の朝鮮半島にある「衛氏(えいし)朝鮮」を征服、楽浪郡など4つの郡を設置、南にある現在のベトナムである「南越(なんえつ)」も征服、南海郡など9つの郡を設置し支配地域を大きく広げることになります。


武帝の内政

遠征を繰り返し行っていた漢は、領土が広いため出費が膨れ上がっていきました。

そこで塩や鉄、酒などの重要な物資を国が専売することで資金を集めていました。また、お金の偽装が相次いでいた「五銖銭(ごしゅせん)」を作り大幅に偽装を減らすことに成功しました。


これだけでなく、均輸法(きんゆほう)と呼ばれる物価の調整を行ったり、平準法(へいじゅんほう)と呼ばれる物価の高騰を抑えるなど、経済を安定させるための政策も行っていました。

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