【古代中国⑥】前漢の滅亡と後漢の誕生

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前漢の滅亡

武帝の時代、遠征による出費を埋めようと様々な政策を打ち出しましたが大きな改善は見られず、皇帝の力が弱まっていきました。

そして武帝の死後、大土地を所有、農民を支配した豪族が力を持ち始め重要な役職を独占、皇帝を中心とした国の政治にも影響を及ぼすようになりました。


また、皇帝の世話役である宦官(かんがん)や、外戚(がいせき)と呼ばれる皇帝の妻の親族も力を持ち始めました。

この流れは徐々に大きくなり、ついには皇帝が操られるような状態に、これを受け皇太子は外戚であった王莽(おうもう)に皇帝の座を譲り前漢は滅びることになりました。


新の誕生と滅亡

皇帝の座についた王莽は(しん)として漢を引き継いでいくことになります。

しかし、この王莽はおよそ1000年前の周の時代を目標とした、時代錯誤な復古政治を行います。

中でも農地の国有化や貨幣の変更が大きく、五銖銭から様々な貨幣に変更した上に民間での鋳造を認めるなど、国内は混乱した状況にありました。


そしてついには農民による反乱が発生、味方を区別するためく染めたことから赤眉(せきび)軍と呼ばれる勢力による赤眉の乱が発生しました。

赤眉の乱により王莽は殺害、新は滅びましたが赤眉軍も前漢6代目の王、景帝の血を引く劉秀(りゅうしゅう)によって壊滅、劉秀が皇帝として漢を再興することになります。


後漢の誕生

劉秀が皇帝となり、光武帝劉秀として国を治めていましたが、この時代も変わらず豪族や外戚の力が強く、彼らが実質的に政治を行っていました。

特に外戚の力が強く、それを疎ましく思った宦官は皇帝と共に外戚の一人を殺害、それ以降は宦官が力を持ち彼らが権力を振るうようになりました。


後漢の対外活動

内部の権力争いが目立つ後漢ですが、外に対しても勢力的に活動していました。

中でも日本国内で有名なのが「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と書かれた金印で、これが当時の日本にあった倭国に対して贈られました。


他にも、廃れていた西側との交易を復活させ大きな利益を上げており、その西域に対して班超(はんちょう)が「西域都護」を行い、またその部下である甘英(かんえい)を大秦国(ローマ帝国)に派遣するなどの活動をしていました。

ローマ帝国には届きませんでしたが、後にローマ帝国の皇帝である大秦国王安敦(マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の使者が日南郡に来るなど広い範囲で成果を上げました。


後漢の衰退

しかし、交易が衰退してくると国内がより荒れることとなり、宦官が反発した豪族などの権力者を投獄・処刑する党錮(とうこ)の禁などの事件が発生しました。


また、この時代では出世に賄賂が頻繁に使われていました。

その賄賂は庶民から搾取したものであったため反発が強まり、ついには張角(ちょうかく)を筆頭とした黄巾(こうきん)の乱が発生することになります。

この黄巾の乱は豪族の協力によって鎮圧されますが、この豪族達がそれぞれ力を持ったため中央の権力が届かず、国として機能しなくなった後漢は滅亡することになります。

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