【古代中国⑪】唐の誕生と二度の最盛期

中国
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唐の誕生

大運河の工事など、労働者の酷使によってでは国民からの反発が強まっていました。

そして高句麗(こうくり)遠征の失敗直後に起きた反乱をきっかけに起きた全国での反乱や、北に居た異民族の突厥(とっけつ)との戦での敗北など、力を徐々に失っていきました。


力を失った国内では独立した勢力が力をつけ、中でも李淵(りえん)は特に勢力が大きく首都を奪取、これを機に一気に衰退した隋は滅亡、李淵が皇帝の座を譲り受け(とう)が誕生することになります。


太宗の時代

李淵の時代、隋で起きた反乱の影響が色濃く残っている状況を李世民(りせいみん)が抑え、抵抗を続ける者たちを滅ぼし大きな戦果を上げました。

そして二代目の皇帝となった李世民こと太宗(たいそう)は「貞観(じょうがん)の治」と呼ばれるほど良い政治を行いました。


しかし、皇帝の命令である詔勅(しょうちょく)が国の機関である三省で決められるなど、皇帝が完全に権力を握っていたわけではなく、これまでの独裁的な国々とは少し違う様子が見られました。

この三省で最も力を持っていたのは貴族でしたが、貴族が国を支配しているわけでもなく、政治は貴族が、それ以外は皇帝が権限を握っており、それぞれが違う形で力を持っていました。


また、律令国家の形をとっており、これが後の日本やベトナムなど様々な国に大きな影響を与えました。

他にも科挙を実施しており、これらの官僚職に就く人材を科挙からも登用していましたが、李世民の時代はまだ貴族の力が強かったため待遇は良くありませんでした。


これらに加え均田制、租庸調制、府兵制などの制度、東突厥を支配したことによる領土拡大などもあり、唐に大きな繁栄をもたらすことになりました。


高宗の時代

高宗の時代には、朝鮮半島にあった新羅(しらぎ)と同盟を結び、同じく朝鮮半島にあった高句麗百済(くだら)を滅ぼすなど、苦戦していた異民族を打倒し領土も唐の中で最大の大きさになりました。


また、支配下に入ることを選んだ民族には「羈縻(きび)政策」と呼ばれる、族長に自治権を与え文化の違いを容認する方法で関係が悪化しないようにしていました。

加えて、都護府と呼ばれる異民族を監視するものを設置することで、事前に問題を解消したりするなどの警備も行っていました。

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