【古代中国④】秦による中国統一と滅亡

中国
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秦の中国統一

戦国時代のを含む7ヵ国、戦国の七雄は拮抗した状態にありました。

しかし隣にあったが韓、魏、趙の3ヵ国に分裂したことで秦は力を持つかと思われましたが、その中からが大きく力を持ち、秦に対しても領土を奪うなど影響を強めていました。

これを受け王であった「孝行(こうこう)」は、大陸中から優秀な人材を集めて国力の向上を目指しました。


商鞅

これに名乗りを上げた法家商鞅(しょうおう)は、悪事を働いていないか互いを監視し合う仕組みや、戦果を上げたものに爵位を与えるなどのを作りました。

その他いくつかの法を導入したことで規律ができ、徐々に国内は発展していくことになります。


また郡県制を導入し、国内を群に分けその中に県を設置、その地に中央から人材を送ることによって遠方にも指示を出せる中央集権の形を作りました。

これに伴い長さや重さなど、度量衡(どりょうこう)も統一したことで地域差による無駄もなくなりました。


始皇帝の誕生

王が「政(せい)」の時代になると国力を強めていた秦に対して5ヵ国連合軍が攻めてきました。これを退けた秦は国内だけでなく他国に対しても力を強め、実質的な一強状態が出来ました。


また、この時李斯(りし)の法家を本格的に導入、より力を強めていくことになり、敗戦して力を失っていた連合軍を含む国々を打倒、史上初めて中国を統一しました。

これに伴い政は始皇帝を名乗り、自らを神格化して権力をより強めていくことになります。


秦の滅亡

中国の統一に成功した始皇帝は、郡県制の範囲を拡大し中国全土に権力が及ぶ形を作りました。

また、法家として邪魔であった儒家を弾圧、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)と呼ばれる儒家の本を焼却したり、儒者を生き埋めにするなど儒家の排除を徹底して行いました。


また文字の統一に加え、通貨を統一するため半両銭への変更を強引に行いました。

加えて部下に対し自分の死後おなじ墓に入るよう命令していましたが、後にこれは実行されず兵馬俑(へいばよう)と呼ばれる、兵や馬を模造した焼き物を入れるといった行為が行われました。


対外政策

始皇帝は内政だけでなく外に対しても対応を迫られることになります。

北方のモンゴル高原にいた匈奴(きょうど)は高い戦闘力を持っていたため、始皇帝は長城を修復、のちに万里の長城と呼ばれるものを作り上げます。

また、南方に対してはベトナム遠征を行い華南を征服、南海郡を設置するなど成果を上げました。


反乱

長城の修復に動員されるなど不満を募らせていた農民は、陳勝(ちんしょう)と呉広(ごこう)を筆頭に、中国史上初となる農民による反乱を起こしました。

「陳勝・呉広の乱」と呼ばれるこの反乱は、勢力を拡大し数万にもなる兵を連れることになりますが、指導者が彼らでは上手くいきそうもないという理由で陳勝と呉広が殺害されたことで終焉を迎えます。


しかし反感が収まるわけではなく、楚の項羽(こうう)と農民の劉邦(りゅうほう)などが挙兵して秦を滅ぼすことになります。

また秦の滅亡後、指導者争いが行われますが劉邦が勝利、前漢と呼ばれる時代に繋がります。

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