【古代中国⑦】三国時代と西晋による統一

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後漢の滅亡

黄巾の乱をはじめとする各地の反乱によって国内は荒れた状態にありました。

その混乱を利用し、一将軍であった董卓(とうたく)は軍事力を使い洛陽(らくよう)を支配、皇帝を殺害し実権を握った上で暴虐の限りを尽くしており、後漢の統治は機能しなくなっていました。


その状態が2年ほど続いた後に董卓軍は孫権(そんけん)らに敗れ逃亡、長安に行くも養子の呂布(りょふ)によって殺害されました。

また、後漢も董卓の後に皇帝が誕生しますが曹操(そうそう)に実権を握られており、曹操の死後、息子であり魏の王となった曹丕(そうひ)に地位を譲ったため漢王朝は滅亡することになりました。


※この後漢の滅亡から隋の誕生までを「魏晋南北朝時代」と呼ぶ


三国時代

張角を筆頭として起きた農民反乱「黄巾の乱」から三国時代に突入します。

三国時代では(ぎ)・(しょく)・(ご)の三国がそれぞれ大陸を支配しており、魏は中国の北側である華北一帯を領地にしていました。

この魏は曹操が荒廃した田畑を人々に耕作させる屯田制(とんでんせい)を行ったことで基盤が整っており、食料が豊富にありました。


また、曹操の息子であり次の皇帝である曹丕が行った、地方においた中正官に優秀な人材を9段階の等級に割り当てた後で推薦させる「九品中正」を行ったことで優秀な人材の登用も無駄なく行うことができていました。


劉備(りゅうび)によって都の成都(せいと)を中心に、魏の南西に建てられた国です。

劉備の時代は主力な武将である関羽(かんう)を失うなど、事件はあったものの善戦しており、また国の収入を増やすことにも成功していました。


しかし、皇帝が劉備の息子である劉禅(りゅうぜん)の時代になると、皇帝の補佐として大きく貢献していた諸葛亮(しょかつりょう)が死去、その後しばらくして宦官が政治に大きく関与すると共に衰退、魏によって滅ぼされることになります。


孫権(そんけん)によって都の建業(けんぎょう)を中心に、魏の南東、蜀の東に建てられました。

華北を制圧したり魏の侵攻を幾度も退けるなど、一時は大きな力を持っていましたが、後継者を巡る内部での争いなど、国内でも問題を抱えていました。


西晋による統一

蜀を滅ぼした魏は一気に力を強めていました。そして魏の皇帝が司馬炎(しばえん)に皇帝の座を譲ったため、司馬炎は新たに洛陽を都として(しん)、後に西晋(せいしん)と呼ばれる国を率いることになります。

晋はしばらくして呉で起きていた反乱に乗じて攻撃をしかけ征服、三国統一を成し遂げました。


しかし司馬炎が死ぬと帝位を狙った継承争いが発生、外戚を中心として内乱が起きた上、外戚らは周辺にいた異民族の力を借りていたことで異民族が国内に大量に入り衰退、北方にいた匈奴によって起こされた永嘉(えいか)の乱によって西晋は滅びることになります。

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