【古代中国⑫】女帝の誕生と唐の滅亡

広告

女帝の誕生

唐の中で最も大きな領土を持っていた高宗が死ぬと、その子供である中宗(ちゅうそう)が皇帝になりました。

しかし、中宗は皇帝に向いておらず成果を出せなかったため、高宗の皇后である則天武后(そくてんぶこう)や、中宗の皇后である韋后(いこう)が中宗を皇帝の座から降ろし、則天武后が皇帝として君臨することになりました。


この一連の騒動は武韋の禍(ぶいのか)とも呼ばれ、則天武后と韋后の専横が目立ちますが、則天武后が国号をと改めた後に行った政治は、官僚の登用に科挙を積極的に取り入れたこともあり、クリーンで良い政治を行った良い時代であったともされています。

また、これにより貴族による官僚独占が崩れたため、この時代から貴族の力が弱くなりました。


唐の衰退

皇帝が玄宗(げんそう)になると、開元の治(かいげんのち)と呼ばれるほどに良い政治が行われました。

また、節度使(せつどし)と呼ばれる異民族との争いが起きた際に指揮する場所も設けられ、内外ともに充実した政治が行われていました。


しかし、玄宗が楊貴妃(ようきひ)を寵愛するようになると政治が乱れはじめ、ついには節度使の安禄山(あんろくざん)とその部下の史思明(ししめい)によって安史の乱が起きることになります。

これは異民族のウイグルの力を借りて鎮圧することに成功しましたが、これにより唐の失墜が目に見えて露わになり、唐は一気に衰退していくことになります。


三制度の崩壊

安史の乱を筆頭とした国内の混乱によって力を失った唐は、政治の基盤であった均田制府兵制の二つの制度が崩壊していました。

これは農民が逃げ出したり、田畑を放棄したことによって均田制が崩れ、それに伴い府兵制が機能しなくなったためです。


これにより均田制から荘園(しょうえん)制と呼ばれる、金銭力のある人々が私有している田畑に労働者として農民が雇われるようになり、また府兵制は募兵制と呼ばれる、金銭で兵を募集する形に移り変わっていきました。

これに伴い、節度使地主が力を持ち始めるようになりました。


また、皇帝が徳宗の時代になると租庸調制も崩壊し、これに代わり両税法が用いられるようになりました。

両税法は土地の面積や資産に応じて課税する方法で、農民など資産が小規模な人間への負担が軽減されました。


唐の滅亡

国が行った塩の値段の釣り上げに反発した塩の密売人、王仙之(おうせんし)と黄巣黄巣の乱(こうそうのらん)と呼ばれる反乱を起こしました。

これにより荘園は廃れ貴族たちは生活が厳しくなり、逆に節度使はどんどんと力を強め、ついには地方の政権すらも握り藩鎮(はんちん)と呼ばれるほどになりました。


そして完全に力を失った唐は節度使の朱全忠(しゅぜんちゅう)に皇帝の座を譲り滅亡、朱全忠は後(こうりょう)を建てることになりました。

タイトルとURLをコピーしました