【古代中国⑭】北宋と周辺民族

中国
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北宋

北宋(ほくそう)は趙匡胤(ちょうきょういん)によって建てられた国で、これまでと比べると比較的領土が小さい特徴を持っています。

しかし、都を黄河と大運河の交点である開封(かいほう)に置いていたため、物がたくさん集まり常に栄えた状態でした。


この北宋は軍人ではなく、政治や学問を学んだ役人によって国をおさめる文治主義の形をとっており、科挙では殿試(でんし)と呼ばれる皇帝の面接を行うほどでした。

これに伴い皇帝は人事などにも意見を出し、加えて争いの火種になりやすい節度使の力を削ぐなど、武力を弱め平和な国造りを目指しました。


武力を棄て平和を目指す北宋ですが、北宋の北方に位置する耶律阿保機(やりつあぼき)が建てた契丹(きったん)族の国、(りょう)に苦しめられることになります。

この遼は五代十国時代、後晋が渡した燕雲十六州を持っており、その中には万里の長城も含まれていたために対等な話し合いができない状態にありました。


そのため北宋は澶淵の盟(せんえんのめい)と呼ばれる、毎年銀と絹を大量に贈るという盟約を交わすことで平和な関係を保っていました。

しかしこの遼はの攻撃を受け滅亡、人々は西に逃げ西遼(せいりょう)として新たに国家を築いていくことになります。


完顔阿骨打(わんやんあぐだ)によって建てられた女真(じょしん)族の国で、元は遼に支配される形で存在していました。

そこから金は独立し、遼の北方に建国、発展を遂げ遼を滅ぼすと共に遼の持っていた領土も手に入れる形になりました。


また、彼らは北宋の北西、遼の南西にあった西夏(せいか)も征服、さらに力をつけていきました。

さらに、金は猛安謀克(ぼうこく)と呼ばれる制度を使い女真族と契丹族をまとめ、国としての力を強めると共に軍事力も高めていきました。


北宋の政治改革

北宋の中でも神宗(しんそう)の時代、遼に対する贈り物や、文治主義に伴う役人の増加によって大量のお金を消費せざるを得ない状況に陥っていました。

そしてついには財政難になり、これを改善しようと王安石(おうあんせき)が新法を作る改革を行うことになりました。


この改革は青苗法や均輸法などによる富国策と、保甲法と保馬法による強兵策に分かれており、貧しい人を救うと共に出費を抑えながら国力を強める狙いがありました。

しかし、減った分の徴収はお金を持った人々から行っていたために、保守派の官僚たち旧法派新法派による対立が発生、結果として旧法派が勝利し新法は廃止されていきました。

そのため財政難は解決されず衰退、北宋は滅びることになります。


北宋の滅亡

財政難に陥り、さらに兵力の乏しい北宋は、遼を滅ぼした金に侵略され都の開封を制圧されました。

さらに金は皇帝である欽宗(きんそう)とその父徽宗(きそう)らを連れ去り、この靖康の変(せいこうのへん)によって北宋は滅びることになりました。

この事件の後、宋の人々は南に逃げ、南宋と呼ばれる国を建てることになります。

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