【中国②】内乱と遠征

中国
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靖難の役

独裁ではあったものの能力が高く、一人で国を纏めていた洪武帝が死ぬと、建文帝(けんぶんてい)が帝位につきました。

しかしこの建文帝は洪武帝のであり、病死した父の代わりという形で皇帝の座についており、若く力も無い状態でした。


そこに目を付けた側近が皇帝に対し、政敵になりえる一族の力を削ぐよう進言、皇帝はこれを受け入れ一族に対し様々な手で粛清を行うことになりました。

もちろん一族はこれに反発、その中でも最も政治的に力を持っていた現在の北京である(えん)の長、燕王が挙兵、靖難の役(せいなんのえき)と呼ばれる内乱が起きることになります。


この内乱では燕王の軍数万に対し皇帝の軍が50万~60万と、燕王の軍に対し圧倒的な数を誇っていました。

しかし重要な拠点である燕を任されていた燕王は経験豊富で指揮が優れており、また建文帝の失策なども相まって南京は陥落、燕王が皇帝の座につくことになりました。


永楽帝の時代

燕王こと永楽帝(えいらくてい)の時代になると、都を北京に遷すと共に内閣大学士を設置しました。

この内閣大学士は皇帝の補佐役であり、忙しい皇帝への負担を緩和する狙いがありました。


というのもこの永楽帝の時代、非常に大規模な対外政策を行っており、ベトナムへの出兵やモンゴルへの遠征など様々な戦争を起こしていました。

中でもモンゴルへの遠征は一度敗戦した後、皇帝自らが率いて行うようになり、またその遠征は五度に渡り行われました。


ベトナムとモンゴル、どちらも大きな戦果を挙げると、次にイスラーム教徒の宦官である鄭和(ていわ)に南海諸国への遠征を命じました。

この遠征は朝貢貿易を拡大する狙いがあり、七度に渡り行われた結果、東南アジア・インド洋・アフリカ沿岸など様々な地域に影響を及ぼしました。


また、この遠征は日本にも影響を及ぼしており、勘合貿易(かんごう)や日明貿易(にちみん)と呼ばれています。

朝貢貿易は明が力を示すものであったために貿易相手のほうが利益が大きく、これにより日本は大きな利益をあげ、日本の発展に大きく貢献したとされています。

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