中国

中国

【中国⑤】清の誕生と鄭成功

明が経済難で混乱していた時代、明の北方では新たに国家が誕生していました。その国は金、現在では後金(こうきん)と呼ばれ、遼や北宋を滅ぼした金と同じく女真族の国家であり、ヌルハチによって建てられました。
中国

【中国④】財政改革と明の滅亡

北虜南倭による襲撃や侵攻、それに伴う万里の長城の修築などにより財政難に陥った明は、税を銀で納めるよう統一する一条鞭法(いちじょうべんほう)と呼ばれる財政改革を行いました。これには貿易が活発に行われるようになったという背景があり、アジア各国や大航海時代を迎えていたヨーロッパなど様々な国と貿易を活発に行うようになった結果、日本銀やメキシコ銀と呼ばれる銀が大量に流入していました。
中国

【中国③】北虜南倭と明の衰退

永楽帝の時代、力を誇示し日本を含む様々な国に巨額の富をもたらした明は、永楽帝の子供や孫の時代に大きな発展を遂げ、最盛期と呼ばれるほどの繁栄がみられました。しかしその頃、モンゴル高原では異民族のオイラトが力を付けており、ついにはモンゴル一帯を制圧、この後から北虜南倭と呼ばれる様々な異民族との争いを強いられることになります。そして、より力を強めたオイラトは、6代目皇帝の正統帝の時代に明にも侵攻を始め幾度にも渡り明との戦争を行いました。
中国

【中国②】内乱と遠征

独裁ではあったものの能力が高く、一人で国を纏めていた洪武帝が死ぬと、建文帝(けんぶんてい)が帝位につきました。しかしこの建文帝は洪武帝の孫であり、病死した父の代わりという形で皇帝の座についており、若く力も無い状態でした。そこに目を付けた側近が皇帝に対し、政敵になりえる一族の力を削ぐよう進言、皇帝はこれを受け入れ一族に対し様々な手で粛清を行うことになりました。
中国

【中国①】明の成立と内政

紅巾(こうきん)の乱で元を倒した朱元璋(しゅげんしょう)は江南を統一、そこから更に力を伸ばし南部一帯を統一、明(みん)が誕生することになります。この朱元璋は洪武帝(こうぶてい)と呼ばれるようになり、長らく支配されていた異民族の国家から漢民族の国家を取り戻した人物としてよく知られています。漢民族に力を取り戻した英雄とも言える洪武帝ですが
中国

【古代中国⑭】北宋と周辺民族

北宋(ほくそう)は趙匡胤(ちょうきょういん)によって建てられた国で、これまでと比べると比較的領土が小さい特徴を持っています。しかし、都を黄河と大運河の交点である開封(かいほう)に置いていたため、物がたくさん集まり常に栄えた状態でした。この北宋は軍人ではなく、政治や学問を学んだ役人によって国をおさめる文治主義の形をとっており、科挙では殿試(でんし)と呼ばれる皇帝の面接を行うほどでした。
中国

【古代中国⑬】五代十国の時代

唐を滅ぼした節度使の朱全忠(しゅぜんちゅう)が後梁(こうりょう)を建てた時から五代時代が始まりました。この後梁は黄河と大運河を結ぶ非常に重要な位置に都を構えているものの、16年ほどで滅亡、ここから短い王朝が続くことになります。後梁の次は後唐(こうとう)で、その次に後晋(こうしん)が建てられました。
中国

【古代中国⑫】女帝の誕生と唐の滅亡

唐の中で最も大きな領土を持っていた高宗が死ぬと、その子供である中宗(ちゅうそう)が皇帝になりました。しかし、中宗は皇帝に向いておらず成果を出せなかったため、高宗の皇后である則天武后(そくてんぶこう)や、中宗の皇后である韋后(いこう)が中宗を皇帝の座から降ろし、則天武后が皇帝として君臨することになりました。
中国

【古代中国⑪】唐の誕生と二度の最盛期

大運河の工事など、労働者の酷使によって隋では国民からの反発が強まっていました。そして高句麗(こうくり)遠征の失敗直後に起きた反乱をきっかけに起きた全国での反乱や、北に居た異民族の突厥(とっけつ)との戦での敗北など、力を徐々に失っていきました。力を失った国内では独立した勢力が力をつけ、中でも李淵(りえん)は特に勢力が大きく首都を奪取、これを機に一気に衰退した隋は滅亡
中国

【古代中国⑩】隋の統一とその内政

北周の外戚であった楊堅(ようけん)によって作られた国で、長い混乱の時代を経て中国を再統一したことで知られています。隋ははじめに南を攻める際の懸念点である、北に居た異民族「突厥(とっけつ)」を攻撃しました。それにより突厥が東西に分裂すると戦力を集め陳を攻撃、力の弱っていた陳はあっさりと滅び中国は再度統一されることになります。
広告
タイトルとURLをコピーしました